ウスリースク市について
ウスリースクってどこにあるの?
ウスリースクはロシア極東ウラジオストクから北100kmの所にある、沿海州で2番目に大きな都市です。緯度は北海道と同じくらいで、日本からは飛行機で2時間。
ウスリースクってどんな街?
人口約16万人、ロシア人・ウクライナ人・朝鮮系民族や、中国・ウズベキスタン・タジキスタン・キルギスタンなど中央アジアからの出稼ぎ労働者が住んでいます。ビジネス視察や観光でウスリースクを訪れる日本人は年々増加していますが、ウスリースクに住んでいる日本人は1人。
ウスリースクはシベリア鉄道・中国や北朝鮮からの鉄道の合流・分岐点となっており、昔から近隣諸国との交易・農業の拠点とされてきました。駅周辺には機関車整備工場や鉄道病院・鉄道専門学校など鉄道関連施設があります。また、対中国戦に備えた陸軍の極東における重要拠点でもあり、市内には軍司令部やロシア国内でも2つしかない珍しい陸軍劇場、郊外には空軍基地もあります。(といっても一般市民は普通に生活しており、決して危険な街ではありません)。
郊外では農作物の栽培の他、家畜の放牧も盛んです。農村へ向かう道を車で走行していると、馬や牛の群れが道を横切ったり、草原で草を食む姿を至近距離で見る事ができます。農家が育てた新鮮な野菜や卵、乳製品や肉などはいつでも市場で安価で購入できます。
ウスリースクには自然がいっぱい
ロシアの自然といえば、シベリアの広大な針葉樹林の森『タイガ』が有名ですが、ここ沿海地方にもタイガの森があります。とりわけウスリースク周辺のタイガは針葉樹林と広葉樹林が混ざり合う、世界でもここにしかない貴重なタイガなのです。そんな珍しいタイガの森には貴重な動植物がたくさん生息しています。
ウスリースク周辺のタイガでは昔から養蜂が盛んです。毎年初夏から秋にかけてタイガに自生する様々な植物の花から採取した滋養に富んだ新鮮なハチミツがウスリースクの特産品です。
また、ウスリースク市内には1894年創業の酒造会社『ウスリースキー・バリザム社』があります。この工場ではウォッカやコニャック、リキュールをベースにして、ウスリースク周辺のタイガで採取された25種類の貴重な薬草を配合した薬草種『ウスリースキー・バリザム』シリーズを製造販売しています。
ウスリースクの歴史
ウスリースクはかつて7世紀から10世紀にかけて存在した渤海国の領土で、率賓府が置かれていました。当時、毛皮その他、沿海地方の特産品を携えて渤海使が船で日本を訪れた記録が日本の北陸や東北に残っています。その後、12世紀以降、北方民族の満洲族により、再びこの地が町として栄えました。ウスリースク周辺の遺跡から当時の物がたくさん発掘されており、その一部は市内にある郷土資料館に展示されています。
ロシア領になってからは西方からの移民により1866年にニコリスコエ村が発足、どんどん町として拡大して行き、1898年にニコリスク市が制定されました。1900年代初頭には既に街中にロシア人の商業地区や中国市場が誕生して賑わっていました。その当時に建設され使用された建物の幾つかは現在も歴史的に貴重なものとして保存されています。
ウスリースク市?それともウォロシロフ市?
ウスリースクは1926年にそれまでのニコリスク市からニコリスク・ウスリースキー市と改称されました。その後、1935年にスターリンの側近だった人の名前をとって「ヴォロシロフ(ウォロシロフ)市」と呼ばれました。しかし戦後、1957年から「ウスリースク市」の名称に戻され、現在に至っています。
シベリア抑留の街
戦後、旧満洲でソ連軍により抑留された日本人がロシアへ移送され(シベリア抑留)、ウスリースク(ヴォロシロフ)でも大勢の日本人が収容所に入れられ、建設その他の強制労働をさせられました。彼らが建てた建築物の幾つかは現在もウスリースク市にあります。また、抑留中に亡くなった日本人抑留者の埋葬地が数カ所、ウスリースク市内や郊外に存在しています。
ウスリースク
1866年 ニコリスコエ村制定
1898年 ニコリスク市制定
1926年 ニコリスク・ウスリースキー市改称
1935年 ヴォロシロフ市に改称
1957年 ウスリースク市に改称
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